~ チョコレイト・シロップ ~




「ただいまー!」

子供にとっては見上げるほど高い、どっしりとした構えの腕木門をくぐり、玄関までのアプローチに敷かれた御影石の上を跳ぶ様に走る。戸外はまだ冷たい風が吹く2月。ランドセルを背負って小学校から走って帰ってきた若島津健は、息を切らせながら家の中に入った。
一旦階段の下にランドセルを置いて、台所に駆け込む。冷蔵庫から牛乳のパックを取り出したところで、物音を聞きつけた姉の志乃が二階から降りてきた。

「お帰り、健。寒くなかった?」
「走ってきたから、全然。暑いくらい。あ、俺、すぐに出かけるから」
「え?ご飯は?」

この日は授業が午前で終わり、給食の出ない日だった。用事があって外出している母親から、志乃は「健のお昼ご飯、よろしく」と面倒を見るように言いつけられ、何を食べさせようかと考えていたのだ。

「ご飯はいらない。日向の家に行って食べるから。約束したんだ」
「ちょっと健。あんた約束って言うけど・・・それ、お母さん知ってるの?」
「言ってないけど・・・だって今日、母さんいないじゃん。お昼だって無いんじゃないの?」
「無い訳ないでしょ。ちゃんと私が頼まれてます」

まだ何も用意していはいないけど・・・と、それは口に出さずに志乃が腰に両手を当てると、健は困ったように首の後ろをかいた。

「・・・あのさ。日向ん家、今日はおばさんが仕事でいないんだって。それで、あいつがお昼にホットケーキ焼くから、それしかなくてもいいなら、食べにくればいい・・・、って言ってくれたんだけど。・・・駄目だった?」

そう言って、健は志乃を見上げて、相手の反応を推し量るように志乃の目を見つめてくる。食事をご馳走になることを、      たとえそれがホットケーキだとしても       子供同士で約束をしてくるのはあまり行儀のいいことではない。志乃は単純にそう言いたかっただけなのだが、『 行けなかったら、つまらない 』と顔に大書きして訴えてくる弟は年相応に子供らしく、可愛らしい。志乃は内心で笑みを漏らした。
とはいえ、親の与り知らないところでそんな約束をしてくるような子ではなかった筈だけど・・・と志乃には少し腑に落ちないところもある。
ホットケーキがそれほど食べたい訳でも無いだろう。そうすると、誘ってくれた友達故か・・・・。

『日向』と弟が呼ぶ少年のことは、志乃もよく知っていた。弟に最近になって出来た新しい友達で、礼儀正しく素直で、なかなかに可愛い顔立ちをした男の子だ。若島津の家にも遊びにきたことが幾度かあり、志乃も母親も可愛がっている。地元のサッカークラブに入っていて、練習には健も誘われて時々参加しているようだ。そのことについては父親がいい顔をしないので、あまり家の中で話題にすることはないが。

健は神妙な顔をして、志乃から下される判断を待っている。是なのか否なのか。随分と年の離れている姉である志乃は、健にとっては母親がもう一人いるようなものだ。そして姉は、普段は物分りがよく我侭を言うこともない弟に対して、頭ごなしに「駄目」と言うことはしなかった。

「ちゃんと手伝うのよ。片付けもちゃんとしてくること。あちらの家に迷惑をかけることの無いように。それと、くれぐれも火に気をつけて」
「わかってるよ」

姉から許可が下りたことに安心したように、健は笑顔を見せた。ランドセルを2階にある自分の部屋に置きに行くために、階段を駆け上がっていく。
その後ろ姿を追って、そういえば・・・・と、志乃は弟に声をかけた。

「健、荷物はどうしたの?」
「え?何ー?」
「貰ってきたんでしょ?チョコレート」

折りしも今日はバレンタインデーだった。身贔屓もあるかもしれないが、志乃から見ても弟は格好よい男の子の部類に入るだろうと思われた。整った目鼻立ちに、涼しげな目元。学年では背が高く、体格にも恵まれている。勉強もスポーツも器用にこなし、クラスのリーダー的存在らしい。
そんな弟を、年に1度のイベントの日に、女の子が放っておく訳はない。幼稚園の頃から毎年、一抱え分のチョコレートを持ち帰ってきたものだった。
ただ残念なことに、若島津健は幼い頃から甘いものが苦手だった。去年も帰宅するや否や、紙袋いっぱいのチョコレートをドサっと志乃に渡し、「姉ちゃん、あとよろしく」と言い置いて、さっさと自分は遊びに行ってしまったのだ。

それなら受け取らなきゃいいのに・・・と家族が言うと、「それはそれで、面倒くさいから。後で何言われるか分からないし。女って、影で何いうか分からないじゃん」と生意気な口をきいて、母親を呆れさせていたものだ。





ところが。



「貰ってないよ」

階段を下りてきた弟は、今年は一つとして貰っていないのだと言う。志乃は意外な答えに目を丸くした。

「どうした、少年。その大暴落は。何かあった?」

・・・女の子の集団無視とか?それとも最近は女の子同士の友チョコがメインで、男の子は二の次なのだろうか。

志乃が無言のまましげしげと弟を見つめると、本人にとっては大したことではないというように、サラリと明かした。

「違うよ。・・・・くれるって言う子はいたけど、いらないって言ったの。そんだけ」
「えー。何で?断る方が面倒なことになるって言っていたじゃないの」
「そうだよ。面倒なことになるんだよ。・・・なのに、日向が受け取ろうとしないからさあ」

俺だけ受け取っても、何でしょ・・・と続ける。

「こーちゃん?」
「あいつ、バカだからさ。深く考えないで、受け取っておけばいいじゃんって言ったんだけど。なのに、いらないって言って受け取ろうとしないんだよ。全員にお返しもできないし、って」
「・・・・・・ふうん・・・。」

なるほど、そういうことか・・・と志乃は合点がいく。
ここでも『日向小次郎』なのだ。きっと弟の世界は既に家族ではなく友達が中心になっていて、その中でもこの少年が心の多くを占めてきているのだろう。

志乃が初めて日向小次郎に会わせて貰った時、弟は会わせる前から「人見知りだし、愛想が無いんだよ」と言っていた。悪く言うような相手とわざわざ付き合うような子でも無かったから妙に感じたが、今にしてみたらあれは一種の保険だったのかな、思う。
実際にその少年に会って見れば全くそんなことは無く、「あんたはあんな風に言っていたけど、日向君、いい子じゃないの」と志乃が後で言えば、「姉ちゃんなら分かると思ったよ」と健は嬉しそうに笑った。
日向小次郎            。あの子ならば、『 貰ったからにはお返ししなくてはいけない 』と、律儀に考えてしまうんだろうな・・・と納得できるような子だった。


とはいえ、健が以前から言うとおり、「女は面倒」なのも事実だ。
受け取ることさえ拒否された女の子たちは、どう出るだろうか。後で悪く噂したりしないだろうか。もしそうなったら、あの子はどれだけ傷つくのかしら・・・と考え、志乃は目の前の弟に視線を移した。

          だから、『 俺だけ受け取っても 』、な訳ね・・・。

「・・・まあ、でもそうだよね。好きな女の子から貰えれば、それでいいんだもんね。こーちゃんが真っ当だよね。こーちゃん、本命からは受け取ったのかしらね」
「誰からも受け取っていなかったみたいだけど・・。ということだから、今年は俺もお返しの準備いらないから。姉ちゃんも助かるだろ?」
「うん。まあね」

確かに今年は楽できそうだ。実際には、見たことも無い女の子たちが、どんな顔をしてホワイトデーのお返しを弟から受け取るのだろうと想像しながらのお菓子作りは、楽しくもあったのだけれど。

「・・・あ、健。なら、これをこーちゃんに持っていって」

健が志乃から手渡された紙袋を見ると、中には小さな袋が4つあり、それぞれに志乃が夕べ手作りしたチョコレートが少しずつ入っていた。

「これ、姉ちゃんが昨日作ってたやつでしょ?貰っていいの?」
「ちょっとだけどね。あんたの分も入れておくね。お昼の後にでも、みんなで食べて。尊くんたちのもあるから」

そういって、小さな袋をもう一つ紙袋の中に入れた。「お返しは勿論いらないから。あんたがご馳走になる御礼って言って渡してちょうだい」

「分かった。ありがとう」


上着を着込んでナップザックを持ち、行って来まーす!と、帰ってきた時と同じように勢いよく玄関を走り出て行く弟の背中に、「自転車で行くんでしょ? 車に気をつけるのよー!」と、志乃はいつものように声をかける。この年頃の男の子には、いくら気をつけろと言っても、言い足りないくらいだ。健も例外ではなく、志乃は前に一度、弟が坂を自転車で下っている姿を見て肝を冷やしたことがある。
以来、事あるごとに注意するようにしているが、どこまで聞いてくれているのかは分からない。


健が完全に家を離れたのを確認してから、玄関の鍵を閉める。そして志乃は思い出したように、ふふ・・・と微笑んだ。

「我が弟ながら、なかなかいいオトコになってきたじゃあないのよねぇ・・・」





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